明け方から降りはじめた雨は、六限目が終わる頃には止んでいた。
生徒たちはすっかり邪魔な荷物となった雨傘を手にして学校をあとにする。
学校内で最も古い西校舎には、理科室や調理室などのあまり使われない教室しかない。
放課後のこの時間帯に訪れる人はほぼ皆無であることをケイはよく知っていた。
特に四階にあるこの準備教室は、普段の授業ですら使われることはなく絶好の隠れ場所でもある。
だから、ケイは一人になりたい時によくこの校舎を訪れていた。
そこは普段彼が使っている教室とほとんど変わらず、違うところといえば机や椅子に埃が積もっていることくらいだった。
かつて、学校に通う子供の数が多かった頃は賑やかだったのだろう。その頃の生徒の作品であろう落書きが、黒板横の壁に無数に存在している。ケイはズボンが汚れるのにも構わず、簡単に埃を払っただけの机の上に座り、ぼんやりと外を眺めていた。
少し汚れたガラスを通して見る空は茜色に染まり、浮かんだうろこ雲のあいだを鳥の群れが通りすぎてゆく。
不意に、キュッキュという音が廊下に響いた。リノリウムの床を滑るその音はケイのいる教室の前で止まり、ドアがガタガタと音を立てる。
「ちょっと待って、開けるから」
少し癖のある黒髪を撫で付けて、ケイは苦笑しながら机を降りる。
この場所に来る人物を、彼は一人しか知らない。彼の友人であり、幼なじみでもある彼女くらいなのだ。
ずっと使われていなかったこともあるのか、この教室のドアは必ずといっていいほど何処かで引っかかる。
開けるコツは簡単だ。
ドアの左端を少し強めに蹴りスライドさせる。そうすればどこにも引っかかることなくすっと動くのだ。
「力技だけどね」
驚いたようにドアの前に立つ幼なじみに向かい、笑いかけた。
「だったら事前に教えてくれればよかったのに」
彼女――サキは、頬を膨らませ拗ねたような口調で言った。
「悪かったよ、サキ。俺だって悪気は無いんだから」
元通りドアを閉めながら、ケイはそう言って苦笑した。
ケイは好きだった。
サキの柔らかい茶髪も、色素の薄い茶色の瞳も、彼女自身も。明るくて優しくって、いつだって眩しい彼女が好きだ。
けれど、言葉にすれば『友だち』という今のこの関係が壊れてしまいそうで、それが怖くて、決して口には出さない。
ケイは、サキが好きだった。
口にすれば実るかもしれない。
けれどそうならなかった場合がとても怖いのだ。
「どうかしたの?」
「ああ、いや。何でもないよ」
もうこんな風に話すことなんて出来ないかもしれない。
想いを伝える勇気なんて到底なくて、ケイは慌てて視線を逸らした。
「ならいいけど……それで、ケイは今日は何してたの? また読書?」
一瞬の沈黙の後、サキはそう言った。
「今日は違うよ」
くすくすと笑って、ケイは窓際を指差した。
「あそこに座って、外を眺めてたんだ」
「外を?」
「うん」
そっと彼女の手をとり、窓際まで連れて行く。お願いだからこの手の震えが伝わりませんようにと祈りながら。
「ここから見る景色、きれいだからさ」
「ホントだ……」
赤く染まった世界を眺めて、サキはほぅと息を吐いた。
その様子を満足げに見て、ケイは腕時計に視線を走らせる。
時刻は午後五時一分前。
「そろそろだね」
「何が?」
ポツリと呟いた言葉に、サキは不思議そうに小首を傾げて言った。
「それはお楽しみ。ここからあっちの方向、見てて」
自分の立っていた場所を譲り、ケイは窓の外を指差した。
ちょうどケイと入れ替わってサキが立つ場所からは夕日がはっきりと見える。
ほんの少し横にずれるだけで、その姿はビルの谷間に隠れてしまうのだ。
「うわ……きれい」
言われたとおり場所を移動して、思わずといった様子でサキは言葉を漏らした。
ガラス一枚向こう側の世界で、燃えるような太陽は意外に早いスピードで沈んでいく。
窓の外を一心に見つめるサキの姿に、ケイは微笑を浮かべた。
「サキの方がきれいなんだけどね」
夕日が見えなくなると同時にケイの紡いだ言葉は、下校を告げるチャイムの音で掻き消された。